円の誕生

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 明治2年3月4日、明治の新政府は奥羽地方の平定まだ苦慮していた。京都の二条城で太政官会議が開かれていた。そこで新しい通貨の名称を「圓」とすることが固まった。形は円形で十進法導入も決まった。新政府は大阪に造幣局を建設中、円通貨の発行園桃にはまだ時間がかかっていた。発行は明治4年5月の新貨条例まで待たなければならなかった。
 藩政時代の通過は清国と同じ両・分・朱・銭という単位だった。その上、形が楕円だったり、四角だったりしていた。世界の通貨はほとんどが円形だった。また不思議なことに一両は四分、一分は四朱というように4進法だった。そもそも4進法などという変則的な数え方が定着したのは、豊臣秀吉が慶長小判をつくった時、一枚の小判の純金の量が4両だったことに端を発する。1両は4匁だったのである。
 常識というものは恐ろしい。長年親しんだ四角い通貨を丸くするだけで大変な抵抗があった。新政府の役人たちにとってもそのことは同じだったようだ。今考えると笑えてしまうような一幕が当時の新政府づくりにあったことは最近知った。
 円をつくった男は大隈重信だった。大隈は立憲改進党を結成し明治期の政党政治の一角を担った人物。また早稲田大学の前身、東京専門学校の創設者としてのイメージが強い。だから、大隈と通貨のつながりに不思議さを感じる人も多いと思う。しかし、大隈は明治2年、外国官副知事兼会計官御用掛となり、その後、大蔵卿に就任した。大蔵大臣が通貨に関与するのは当たり前の話である。
 明治2年7月7日、会計官副知事の大隈は、各国の公使に新しい通貨の品位を報告した書簡に「1円ヲ以テメキシコ洋銀二比較シ」云々と書いた。メキシコ洋銀は当時、国際間の貿易で最も使用されてい銀貨ある。つまり、日本の新しい通貨は「銀貨」だったのである。紙幣が誕生するにはまだ時間がかかる。(WaterBase主宰 伴武澄)



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