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プラザ合意とは?1985年の円高はなぜ起き、その後の日本経済はどう変わった?

編集:お金をめぐる編集部 公開 約9分で読めます
プラザ合意とは?1985年の円高はなぜ起き、その後の日本経済はどう変わった?
目次
  1. プラザ合意とは?
  2. なぜドル高が問題になった?
  3. 声明には何が書かれていた?
  4. 発表のあと、為替市場で何が起きた?
  5. 円相場はどう動いた?
  6. 急な円高で輸出の現場はどうなった?
  7. 日本銀行はどう動いた?
  8. プラザ合意がバブルを生んだの?
  9. よくある質問

1985年9月、1ドル242円程度だった円相場は、1年もたたないうちに160円を割るところまで上がりました。この急な円高のきっかけとしてよく挙げられるのが、プラザ合意です。ただ、プラザ合意で何が決まったのか、その後の出来事のどこまでが合意の結果なのかは、分けて見る必要があります。この記事では、当時の声明の本文と、経済白書や日本銀行の資料を使って順にたどります。為替レートの仕組みそのものは円安・円高とはで紹介しています。

  1. プラザ合意は、1985年9月22日に5か国の財務相と中央銀行総裁が出した声明。ドル以外の主要通貨がドルに対して秩序立って上がることが望ましい、とした
  2. 声明には目標とする為替レートの数字はない。発表の翌日から大きくドル安・円高が進み、その後、各国の協調介入も行われた
  3. 急な円高で輸出の現場は打撃を受け、日本銀行は公定歩合を5回下げた。その後のバブルとの関係は、プラザ合意だけでは説明できない

プラザ合意とは?

プラザ合意は、主要な先進国の財務相と中央銀行総裁が、1985年9月22日に発表した声明を指します。会合はニューヨークで開かれ、日本では「G5」「プラザ合意」と呼ばれてきました。

参加したのは、次の5か国です。

  • 日本
  • アメリカ
  • 西ドイツ
  • フランス
  • イギリス

米国の連邦準備制度が1985年12月に出した為替操作の報告には、この声明の全文が収められています。この記事では、声明の書き方はこの報告で確かめています。

なぜドル高が問題になった?

1980年代前半は、ドルが他の通貨に対して高くなり続けた時期でした。経済企画庁の経済白書(昭和61年)は、このドル高の主な原因をアメリカの政策の組み合わせに求めています。金融は引き締め、財政は緩和という組み合わせです。その結果として残ったのが、財政と経常収支の2つの赤字、いわゆる双子の赤字でした。

声明自身も、問題を次のように整理しています。アメリカは大きく増え続ける経常収支の赤字を抱えている。日本と、程度は小さいものの西ドイツは、大きく増え続ける黒字を抱えている。そして、アメリカの赤字が保護主義の圧力を強めている。

保護主義とは、輸入を制限して自国の産業を守ろうとする動きです。声明は、これに歯止めがかからなければ報復の応酬になり、世界の貿易が縮むおそれがあると述べていました。ドル高は、貿易の不均衡と結びついた問題として扱われていたわけです。

声明には何が書かれていた?

声明の中心は、為替レートについての次の部分です。

  • 各国の経済の基礎的な条件の変化が、為替市場にまだ十分に反映されていない
  • 為替レートは、対外的な不均衡を直す役割を果たすべきだ
  • ドル以外の主要通貨が、ドルに対してさらに秩序立って上がることが望ましい
  • そのために役立つときは、より緊密に協力する用意がある

あわせて、各国はそれぞれの政策の方針を添えました。日本の方針には、国内市場の開放や規制の緩和と並んで、円相場に十分な注意を払った柔軟な金融政策の運営が入っています。

ここで押さえておきたいのは、声明に書かれていないことです。声明には、「1ドル何円にする」といった目標の数字はありません。為替介入という言葉も使われていません。書かれているのは、ドル以外の通貨が上がるのが望ましいという考え方と、協力する用意がある、という姿勢です。

発表のあと、為替市場で何が起きた?

連邦準備制度の報告によると、ドルは発表の翌日、公的な介入が始まる前から大きく下がりました。翌日の東京市場は祝日で休みだったので、中央銀行の最初の売り買いはヨーロッパで行われています。

東京市場が開いた9月24日には、ドルを買う動きが強まり、日本銀行は大量のドル売りで応じました。10月に入ってドルが値を戻そうとしたときも、上昇はおおむね抑えられました。報告は、アメリカと他の通貨当局による協調介入の結果だとしています。

つまり、声明の発表と、各国の介入は別々の出来事です。経済白書(昭和61年)の評価では、5大国がそろってドル高の修正に取り組む姿勢を示し、市場の期待が大きく変わりました。

協調介入の仕組みは為替介入とはで紹介しています。

円相場はどう動いた?

経済白書(昭和61年)が書いている円レートの動きを、日付順に並べました。白書の昭和の年は西暦に直しています。

時期円レート(1ドルあたり)白書の書き方
1985年2月13日263.4円ここを底に円高に転じた
G5直前242円程度9月まではゆるやかな円高
1985年9月末210円台G5の後に大幅に上昇
1986年1月下旬190円台を突破再び急上昇
1986年2月中旬180円前後しばらくこの水準
1986年5月12日一時160円を割る急速な上昇

表を見ると、円高はプラザ合意の前から始まっていたことがわかります。白書は、1985年2月以降に円高へ転じた要因として、アメリカ経済の拡大が鈍ったことと、日米の金利差の縮小を挙げています。そのうえで、9月下旬からの急な上昇は、G5の合意を受けた協調介入がきっかけだったとしています。

プラザ合意の後に円高が急に進んだことは確かです。白書も、G5の合意を受けた協調介入が9月下旬からの急な上昇のきっかけになったと評価しています。ただし、円高は合意の前から始まっていて、そのすべてを合意だけで説明することはできません。

急な円高で輸出の現場はどうなった?

円高になると、ドルで受け取る代金を円に替えたときの手取りが減ります。値上げをすれば、今度は売れる数量が減ります。輸出の多い企業や地域ほど、影響は大きくなります。

経済白書(昭和61年)は、輸出産地の中小企業への影響を、国の調査をもとに詳しく書いています。

  • 中小企業庁の調査では、1986年4月時点で、55の輸出産地のうち35産地で、新しい契約が止まった企業が出ていた
  • 労働省が40産地で聞き取りをしたところ、16地域で円高に関連した一時休業や解雇が行われていた

1986年度を振り返った翌年の白書(昭和62年度)は、景気がすでに1985年半ばから下り坂の局面にあったとみています。そこにG5後の急な円高が重なり、とくに輸出にかかわる製造業で落ち込みが深まった、という整理です。内需にかかわる産業が好調を保つ一方で、製造業は深刻な打撃を受け、「景気の二面性」が生まれました。1986年度の成長率は2.6%にとどまっています。

ここでも白書は、景気の落ち込みを円高だけのせいにはしていません。もともとの調整局面に、円高が重なったという見方です。

日本銀行はどう動いた?

日本銀行は、1986年1月から1987年2月にかけて、公定歩合を5回下げました。公定歩合は、当時の代表的な政策金利です。今の政策金利との違いは政策金利とはで紹介しています。

変更日公定歩合
1983年10月22日5.00%
1986年1月30日4.50%
1986年3月10日4.00%
1986年4月21日3.50%
1986年11月1日3.00%
1987年2月23日2.50%
1989年5月31日3.25%

2.50%の水準は、1989年5月の引き上げまで2年3か月続きました。

利下げのねらいは、時期によって変わっています。日本銀行金融研究所の論文は、次のように整理しています。

  • 1回目から3回目:内需拡大。主な目的は、対外的な不均衡、事実上はアメリカへの貿易黒字を減らすこと
  • 2回目と3回目:これに加えて、急に進む円高にブレーキをかけるねらい
  • 4回目と5回目:景気の停滞感と、円高が物価を押し下げる効果への対応

日本銀行の役割の全体は日本銀行とはで紹介しています。

プラザ合意がバブルを生んだの?

「プラザ合意がバブルを生んだ」と言われることがあります。プラザ合意から円高、円高への対応としての金融緩和、という流れがあったのは事実です。ただ、その後の地価や株価の大きな上昇を、プラザ合意だけで説明することはできません。

先ほどの金融研究所の論文は、1980年代後半のバブルは金融緩和のもとで生まれ、膨らんだとしています。そのうえで、バブル期の特徴として、資産価格の上昇に加えて3つを挙げています。

  • 金融緩和が長く続いたこと
  • それでも物価が安定していたこと
  • 人々の期待が非常に強気になったこと

金融機関の動きにも触れています。土地を担保にした融資や、不動産・建設・ノンバンク向けの貸し出しをとくに伸ばしていた、という点です。論文は今後の教訓として、為替レートに気を配りすぎないことも挙げています。80年代後半にはその傾向が目立った、という指摘です。

ただし、この論文の意見は筆者個人のもので、日本銀行の公式見解ではないと明記されています。論文自身も、自分たちの見方にはいくつかの異論があり得ると書いています。バブルの原因は、研究者の間でも評価が分かれるテーマです。

よくある質問

プラザ合意で「円を何%上げる」と決めた?

声明の本文には、目標とする為替レートや上げ幅の数字は書かれていません。書かれているのは、ドル以外の主要通貨がドルに対して秩序立って上がることが望ましい、という考え方です。

プラザ合意は為替介入の合意だった?

声明には、為替介入の実施日や金額、具体的な方法は書かれていません。書かれているのは、ドル以外の主要通貨が秩序立って上がるよう、役立つときはより緊密に協力する、という姿勢です。この姿勢を受けて、発表のあとには日本銀行を含む各国が協調して介入しました。なお、連邦準備制度の報告によると、ドルは介入が始まる前の発表の翌日から大きく下がっています。

  • プラザ合意は、1985年9月22日に日本・アメリカ・西ドイツ・フランス・イギリスの財務相と中央銀行総裁が出した声明
  • 声明の中心は、ドル以外の主要通貨がドルに対して秩序立って上がることが望ましい、という考え方。目標の数字や介入という言葉はない
  • 円高は1985年2月から始まっていたが、G5の後に急に進み、1986年5月には一時160円を割った
  • 輸出産地が打撃を受け、日本銀行は公定歩合を5.00%から2.50%まで5回下げた。バブルとの関係は、金融緩和や不動産向けの貸し出しなど複数の要因と合わせて見る必要がある

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