1980年代後半に大きく上がった株価と地価は、1990年代に入ると大きく下がりました。これを「バブル崩壊」と呼びます。この記事では、何がいつどれだけ下がり、その後の景気と金融機関に何が起きたのかを整理します。出来事の日付と数字を先に示し、そのあとで政府や研究者の分析を分けて紹介します。
- 株価(日経平均)が最も高かったのは1989年末。全国の地価の変動率がマイナスになったのは1992年の公示から。景気の山は1991年2月。どの数字で見るかで、時期がずれる
- 1989年5月に公定歩合の引上げが始まり、1990年4月には総量規制が実施された。株価と地価が下がり始めた節目を、当時の経済白書は「基本的には金融環境の変化」とみている
- 1997〜98年には、大手の金融機関で経営の行き詰まりが相次いだ。何が起きたかは金融機関ごとに違い、1989〜90年の株価の下落だけでは説明できない
01 バブル崩壊とは?
バブル崩壊は、1980年代後半に大きく上がった株価と地価が、1990年代に入って大きく下がったことを指します。
何をもって「バブル」と呼ぶのでしょうか。経済企画庁の経済白書(平成5年度 年次経済報告)は、値段が上下すること自体をバブルとは呼んでいません。1980年代後半には、経済の実力では説明のつかない高さまで、株や土地の値段が上がりました。白書がバブルとしているのは、その部分です。上がった分の中には、経済の条件から見て自然な値上がりもあった、という立場です。
この記事では、日本銀行金融研究所の『金融研究』に載った論文も紹介します。論文には、意見は筆者個人のもので、日本銀行の公式見解ではないと明記されています。以下では、論文の見方を、筆者を主語にして紹介します。
翁邦雄氏・白川方明氏・白塚重典氏は、1980年代後半の「バブル経済」を3つの現象で特徴づけています。資産価格の急な上昇、経済活動の過熱、お金の量と貸し出しの急な膨らみです。
02 バブルはいつからいつまで?見る数字で時期が違う
株価、地価、景気では、ピークや下がり始めの時期が違います。
| 見る数字 | 時期 | 資料 |
|---|---|---|
| 株価(日経平均)のピーク | 1989年末(3万8,915円) | 経済白書 |
| 地価(全国・全用途)の変動率がマイナスに | 1992年1月の公示(前年比4.6%下落) | 経済白書・国土交通省 |
| 景気の山 | 1991年2月 | 内閣府の景気基準日付 |
| 景気の谷 | 1993年10月 | 内閣府の景気基準日付 |
株価は1990年に入ってすぐに下がり始めました。景気の山と谷を見ると、山が1991年2月、谷が1993年10月です。景気が後退していた期間は32か月でした。株価、地価、景気は、同じ時点で一斉に変わったわけではありません。
どこからどこまでをバブルと呼ぶかも、資料によって違います。翁氏らは、崩壊の始まりについてもいくつかの見方があると断っています。そのうえで、自分たちの分析では1987〜1990年の4年間をバブル期として扱っています。
03 プラザ合意・円高・金融緩和との関係は?
1985年9月のプラザ合意のあと、円高が急に進みました。日本銀行は1986〜87年に公定歩合を5回引き下げ、2.5%の水準を1989年5月まで保ちました。この時期のことは、プラザ合意とはで説明しています。公定歩合という言葉は、政策金利とはで紹介しています。
経済白書の見方はこうです。プラザ合意のあとの財政・金融政策は、長い景気拡大や対外黒字の縮小に役立ちました。その一方で、「バブル発生の一つの素地となったことは否定できない」と書いています。白書は「一つの」と書いており、原因の全部だとは書いていません。
白書は、すぐに手を打てなかった事情にも触れています。株価や地価がバブルだという見方が、当時はまだ国民の間で共有されていなかった、という点です。
翁氏らの結論は、バブルの原因を1つに絞らないものです。最初のきっかけになる変化がいくつかありました。そこに影響を大きくする要因が重なり、人々の見通しが強気に傾いていった、と説明しています。
日本銀行の山口副総裁(当時)は、1999年の講演で次のように述べています。金利の低い状態が続くという見方は、ある時点で一度にできたものではありません。プラザ合意からブラックマンデー、米国とドイツの利上げまでの間のことです。その間の日本の政策対応や据え置きを通じて、少しずつできあがった、という説明です。
どの分析も、プラザ合意だけでバブルを説明してはいません。
04 金融引締めと総量規制で何が変わった?
金融引締めは、1989年5月31日に公定歩合を上げたところから始まりました。白書によると、景気の過熱からインフレが起きるのを前もって防ぐのがねらいで、引上げは9年ぶりでした。その後も1990年8月30日まで引上げが続き、公定歩合は6.00%になりました。1年あまりで5回です。
| 日付 | 公定歩合 |
|---|---|
| 1989年5月31日 | 3.25% |
| 1989年10月11日 | 3.75% |
| 1989年12月25日 | 4.25% |
| 1990年3月20日 | 5.25% |
| 1990年8月30日 | 6.00% |
引下げに戻ったのは、1991年7月1日のことです。
土地向けの融資にも、伸びを抑える規制がかかりました。翁氏らの論文の年表には、1990年3月に大蔵省が総量規制を示達したとあります。白書によると、実施は同じ年の4月からです。金融機関が不動産業に貸すお金の伸びを、貸し出し全体の伸びより低く抑えるしくみでした。
白書と論文は、崩壊のきっかけをどう見ている?
白書は、株価と地価が下げに転じた節目について、「基本的には金融環境の変化であったと考えられる」としています。ただ、株価と地価では、下げに働いた要因の書き方が違います。
- 株価:1990年以降に金利が本格的に上がったことが、値上がりを見込む空気を冷ましたとみている
- 地価:金利の引上げに加え、土地基本法のあとの税制の見直しや、総量規制などの措置の影響が大きかったとみている
白書によると、1989年10月からの3回の引上げは、インフレを前もって防ぐための措置でした。ただ、国民の間では、資産の値段を下げるための「バブルつぶし」と受け止められた、とも書いています。これは白書が記した国民の受け止め方で、政策の目的として書かれているわけではありません。
引締めの評価は、時期とともに変わりました。翁氏らによれば、崩壊の直後には、引締めを「バブル潰し」として前向きにとらえる声もありました。その後、景気の後退が長引くと、厳しい批判が向けられるようになりました。1980年代後半に金融緩和を長く続けたことが、バブルとその後の不良資産の問題を招いた、という批判です。
05 株価と地価はどれだけ下がった?
株価
白書によると、日経平均株価の最高値は1989年末の3万8,915円です。1990年に入ると急落し、3月に一時3万円を下回りました。10月初めには、最高値の半分ほどの2万円前後まで下げています。さらに1992年8月18日には1万4,309円となり、最高値から63%下がりました。日経平均株価の仕組みは、日経平均株価とはで紹介しています。
地価
地価公示では、国土交通省が毎年3月に、その年の1月1日時点の土地の価格を発表します。下の表の数字は、その前の年と比べた上がり下がりの割合(変動率)です。
| 公示の年 | 全国・全用途 | 三大都市圏・全用途 |
|---|---|---|
| 1987年(昭和62年) | 7.7% | 15.0% |
| 1988年(昭和63年) | 21.7% | 43.8% |
| 1989年(平成元年) | 8.3% | 12.2% |
| 1990年(平成2年) | 16.6% | 22.1% |
| 1991年(平成3年) | 11.3% | 8.5% |
| 1992年(平成4年) | −4.6% | −11.6% |
| 1993年(平成5年) | −8.4% | −14.7% |
この表の出典は、国土交通省の「変動率及び平均価格の時系列推移表(令和8年地価公示)」です。全国と三大都市圏の「全用途」の行を写しました。14個の数字は、すべて同じ表の同じ系列です。変動率は、前の年から続けて調べている地点ごとの変動率を平均したものです。
国土交通省のサイトには、7月1日から翌年7月1日までの1年間で計算した、別の変動率の表もあります。調べる時点が違い、数字も違うので、この表とそのまま並べて比べることはできません。
全国・全用途では、1992年1月の公示で前年比4.6%の下落となりました。1993年の公示では8.4%の下落です。三大都市圏の数字は、補足として並べました。年によって、全国とは動き方が違います。
白書は、地域ごとの時期の違いにも触れています。東京圏では1988年から、大阪圏などでは1990年から地価が落ち着き始めました。1991年には大都市圏で下がった、という流れです。
ここで注意したいのは、変動率は前の年と比べた上がり下がりの割合で、地価の水準(平均価格)そのものではない点です。この表から読めるのは、全国・全用途の変動率がいつマイナスに転じたかです。全国の地価の水準がいつ最も高かったかを、三大都市圏の数字から推し量ることはしません。
下がり始めた順番も違います。白書によると、1990年は年明けから株価が下がり、それに続いて地価も落ち着いていきました。
06 金融機関に何が起きた?
1990年代前半:利益の減少と不良資産の増加
白書は、資産価格が下がったことで、金融機関は蓄えが減り、不良資産が増えたとみています。この2つの面から、経営が苦しくなったという分析です。全国の銀行の経常利益は1988年度が過去最高で、そこから1992年度まで4年続けて減りました。
大蔵省の調べでは、都市銀行・長期信用銀行・信託銀行の不良資産は、1992年3月末に8.0兆円でした。1993年3月末には12.8兆円まで増えています。この不良資産は、延滞が6か月以上続いている貸し出しを数えたものです。
1997〜98年:大手金融機関で起きたこと
1997〜98年には、大手の金融機関で大きな出来事が続きます。白塚重典氏・田口博雄氏・森成城氏の論文は、1997年11月の出来事を取り上げています。三洋証券に続き、北海道拓殖銀行や山一證券などの大手金融機関が「破綻に追い込まれた」という記述です。これをきっかけに、金融システムへの不安が強まったとしています。
ただ、4つの金融機関で何が起きたかは、資料ごとに書き方が違います。
- 北海道拓殖銀行(1997年11月17日):金融庁の破綻金融機関の一覧で、この日が「破綻公表日」とされています
- 山一證券(1997年11月24日):この日の臨時取締役会で、会社をたたむ(廃業・解散する)ために営業をやめることを決めました。同じ日、日本銀行は、富士銀行への貸出を通じて資金を融通する臨時異例の措置を決めています(日本銀行の資料)
- 日本長期信用銀行(1998年10月):金融再生法にもとづく特別公的管理を受けました(白塚氏らの論文)。金融庁の一覧の破綻公表日は10月23日です
- 日本債券信用銀行(1998年12月):同じく特別公的管理を受けました(白塚氏らの論文)。金融庁の一覧の破綻公表日は12月13日です
山一證券について、日本銀行は、1997年11月後半に巨額の簿外債務がある疑いが濃くなったと記録しています。同じ資料には、当時の背景として、株価とアジアの通貨の不安定な動き、金融機関の経営破綻の続発、景気の減速も挙がっています。
1997〜98年の出来事には、1990年代前半から積み重なった不良債権の問題がありました。そこに、こうしたその時々の事情も重なっています。1989〜90年の株価の下落だけで説明できるものではありません。
07 景気の低迷が長引いたのはなぜ?
白塚氏らは、崩壊後の調整が長引いた背景として、主に次の3つを挙げています。
- 成長の見通しが急に引き下げられたこと
- 企業が負債や資産の中身を立て直そうとしたこと
- 銀行が不良債権を抱え、お金を仲立ちする力が弱ったこと
白塚氏らの分析では、これらがバブル崩壊の打撃を大きくし、調整を長引かせました。
金融緩和については、不良債権を根本から処理しないまま、緩和だけで対応するのには限界があった、としています。1990年代が日本経済の「失われた10年」と呼ばれることが多い、という紹介もあります。
その後の物価の下落(デフレ)については、デフレとはで説明しています。
08 よくある質問
プラザ合意がバブル崩壊の原因?
プラザ合意は1985年の出来事で、株価と地価が下がり始めるより前のことです。経済白書は、プラザ合意以降の政策運営を、バブル発生の「一つの素地」と書いています。株価と地価が下がり始めたのは1990年代に入ってからで、白書はその節目を、基本的には金融環境の変化とみています。
金融引締めだけが、バブル崩壊の原因?
そうとは言い切れません。経済白書は、地価の下落には、金利の引上げだけでなく、土地の税制の見直しや総量規制などの措置も大きかったと書いています。崩壊後に景気の低迷が長引いた背景としては、白塚氏らが、企業の財務の立て直しや銀行の不良債権問題を挙げています。
バブル景気はいつからいつまで?
資料によって時期の取り方が違います。翁氏らの論文は、1987〜1990年の4年間をバブル期として分析しています。景気の動きで見るなら、内閣府の景気基準日付の山が1991年2月、谷が1993年10月です。
- バブル崩壊は、1980年代後半に大きく上がった株価と地価が、1990年代に入って大きく下がったこと
- 株価のピークは1989年末、全国・全用途の地価の変動率がマイナスになったのは1992年の公示、景気の山は1991年2月。時期はそれぞれ違う
- 公定歩合は1989年5月から1990年8月までに5回引き上げられ、1990年4月から総量規制が実施された。白書は、崩壊のきっかけを基本的には金融環境の変化とみている
- バブルの原因を1つに絞らない論文があり、プラザ合意だけ・金融引締めだけでは説明できない
- 1997〜98年には、拓銀・山一證券・長銀・日債銀で、それぞれ違う形の出来事が起きた。背景には不良債権の問題に加え、その時々の事情も重なっていた

